端午の節句の歴史

2020/11/02

# 風習・文化

日本には五つの節句がありそれぞれに歴史や言い伝え、風習があります。その中でも桃の節句、端午の節句はよく知られ日本のよき文化として伝わっています。
今回は端午の節句について考えてみたいと思います。

古来じつは女性の節句だった端午!

 

端午の節句といえば男の子の節句ですが実はその昔は女の子の節句だという事ご存じでししょうか?

端午の節句は元をたどると中国からきています。中国では端午の日に穢れを祓い厄災から逃れるための行事が行われました。後に(午)は五に通じるため、五月五日を端午と考えるようになり、それが日本にも伝わったそうです。 まさに語呂合わせですね。
日本では端午の頃田植えの季節に重なり、田の神を祭るために菖蒲の葉を屋根に書いた家に籠る行事(穢れにふれぬよう身体を清め、家に籠って過ごすこと)が行われていました。これと中国の祓えの行事とが結びつき田の神を祭るのは女性の役割だったことから古来端午の節句は女性の節句とされていたそうです。

ではいつ男の子の節句に変わっていったのでしょうか?これは日本の武士の存在がかかせません。武士の台頭で菖蒲を「勝負」や「尚武」にかけ縁起をかつぎ女の子の節句が次第に男の子の節句へと変化、兜や武者人形(五月人形)を飾る現代の形になったそうです 今では こどもの日 として認知され こどもの人格を重んじ、こどもの幸福をはかるとともに、母に感謝する日として制定されています。

風習の歴史をたどると地域の伝統や文化にふれることができとてもおもしろいですね。

鯉のぼりをかざるようになったのは身分制度の違い?

端午に武家では家紋の幟を一対、中国の魔除けの神である鍾馗を描いた旗を立てるのが一般的でしたが身分の厳しかった時代に平民が武士と同じものを飾ることはゆるされなかったため鯉を描いた幟を飾ったのが始まりのようです。

東京の伝説では武士ではない子供たちには飾るものがなく、かわいそうに思った人が家紋の幟の変わりとなるものはないかと考え、子供たちに人気の鯉の幟を作ったのが始まりという内容の物語や、幟の上にさらに小さな旗をつけ、その中に小さな紙製の鯉をつけたものがあり、それが人気となって大型化したという物語もあるようです。

 

まとめ

歴史を辿ると端午の節句は女の子の節句から男の子の節句へと変化してきたことに驚きます。 歴史のターニングポイントは現代の風習にもつながりとても興味深いです。
風習とともに歴史をふりかえってみるのも新しい発見があるのかもしれませんね。